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2014-11-27 10:00:00

天動説と地動説

中世ヨーロッパにおいて侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が各地で行われ、歴史上においても大きな記録となっています。
ガリレオ・ガリレイ、多くの方がご存知の事と思います。

この時代はローマ法王の発する見解が正しさでありそれ以外の異なる意見は全て間違えであるという時代でした。

例えば魔女狩りやスペインのカタルーニャ地方の宗教弾圧がそれにあたるものと思います。


全体的な物の見方からすると、ひとつの基準ともなる見方です。

天動説か地動説、現在において人は無意識ながらどちらかの選択をして日々何気なく過ごしています。

天動説だからといって太陽や金星や木星がどうのこうのというつもりはありません。

天動説的生き方は、常に何かや誰かの影響を受け命令されたり支配されたりという上下関係というか
縦社会の発想に基づく生き方という事です。

つまり私達は家庭なり会社なり学校なり社会生活においてこれを当たり前として生きています。
しかも何千年ともいう長い年月そうしてきています。

言い換えるなら自分のエネルギーやら考え方や表現して生きて行く事を一部を除き行ってきていません。
自分のエネルギーのままに生きてしまうと不道徳、非常識、倫理に欠けるとか世間知らずやバカと罵られます。

もっと言い換えると自分のエネルギーのままに生きるという事を何代にも渡ってやっていないので、
とても難しい事だと先入観念に定義されている方が殆どだと思います。
それをうまく表現しているのが、バシャール1ではないでしょうか?

 

次に地動説ですが、天動説と異なり全ての責任を自分が取るという天動説とは全く逆の生き方という事になります。
責任を取るという事は自由であるという事にもなります。

つまり自分を中心にして全ての事柄に対応して生きていくことです
当然ですが初めからこれを出来る人は誰もいません。
目には見えない世界の法則として自らの周りや環境の中に制限をしているごみや異物をひとつひとつ、痛みや悲しみ苦痛怒りや葛藤等を表示させないように剥がしていく作業が必要となります。
これをしないとただの思い込みや勘違いだけで空しさだけが残ってしまいます。
それだけ天動説で身に付けた鎧は頑丈なものなのです。

例えば交通事故です。
事故が起こるので天動説的にいうと加害者と被害者がいます。

天動説ですから、加害者が被害者の債務を責任を持って対応するということになっています。
勿論、法律的にもそうなっています。
これを損失とか正しいとか誰が間違っているとかいう価値観という名の意味付けがなされるのが通常の事と思います。

中立的に見てみると、道路上で誰かと誰かが事故にあった、それだけになります。
客観的な現実はただそれだけです。
何かの意味付けとか価値については各人各様がそれぞれ内側でやっている事であって、つまりその人の固定観念であって、現実はアクシデントが起こった事だけではないでしょうか。

さて、今度は地動説で見ていきます。
目には見えない世界の法則には素粒子が関係してきます。
そこから見ていくと、加害者も被害者も同じ周波数であるということになります。
なぜならば同じ周波数でしか遭遇する事がないというのが法則です

また事故を起こしたということは否定的観念を双方とも持っていたということになります。

そして、プラスの観念を持っていたとするならば事故もあり得ないことになります。
従って、加害者および被害者どちらかが悪いとか間違っているとかという捉え方は天動説であり、事故が起こったという時点において加害者、被害者ともその周波数であるならば自然の法則にそって起こった事に過ぎません。

つまり偶然ではなく必然であるという事になります。
付け加えるならばそれが自然からのメッセージという事になります






 

■ 健康コンシェルジュ 気戸 ■
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