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2018-04-06 09:25:00

飛行機の窓から

柚木麻子さんの小説を過去において何度か紹介いたしたことがあります。 ここ周辺においては出しておりませんので彼女の存在を知らない方もおられるかと思います。 2017年4月に出版されている柚木麻子さんの小説、 バターを取り上げたいと思います。昨年の直木賞選考にも入っていた小説ですが、 こんなこと無いよとか偏り過ぎているよというようなことで選ばれなかった作品です。 選考委員の一人の論評にあったと思うのですが、それはsense of shame、 恥に対する捉え方の問題ではないだろうかだったと思います。 それはこのホームページでこのプログラムでこちらを含め誰もが引 っかかる、足止めをしてしまう、 夢を壊してしまうとか諦めてしまうとかなかったことにしてしまう トリックの最大級のものであるように思います。 小説の中で里佳さんの父親が孤立してしまいどうにもならずに動けなくなってしまい最優先する必要性のあることですら出来ずに死んでいったという結果にもしてしまうトリックの強大さだったのかもしれません。 最近の話でいえば前国税庁長官だった佐川さんの国会証人のあの一 場面でも根底の根底にある価値観に対する恥、 この一文字の影響は絶大だったのではないでしょうか。 それをすり抜けるための方便として刑事訴追という言葉を用いただけのように思えます。 そうしたことは日常茶飯事で誰もが毎日毎瞬やっていることであって、それなりに人間関係が進んでいるのもこうした配慮が双方にあるた めだと思われます。 例えば駅のホームで電車を待つ女子高生のスカートがめくれるのが 恥というのもあれば、大東亜戦争において捕虜になるのが、 生きていることが恥と捉え死ぬ方もいたし、 誰もができると思われていることを自分ができないということを知 ってしまったことへの恥、日常生活においても金のことや学歴、 しつけや常識、食事におけるワインの知識やマナー、 服装やTPOとかのマニュアルを知らない恥から哲学や宗教的なこ とに対する様々な恥もあると思います。 小説バターの中で語られている小菅の住人の生き方、 その共通点を持っている伶子さんの生き方、 主人公の里佳さんもそこまでに至る過去の出来事から生じてくる現在の選択にしても、どこかsense of shameを基準として箱の中におさまった選択をしたり、 箱の中から脱皮した選択をしたりして進化していく、 その結果玉ねぎの皮を一枚ずつはがすようにらくになり穏やかになり新たな自分自身の在り方や生き方を築きあげていくという、 現在の私達にとって触りたくないけど触らなければこの先がなくな ってしまう、 行き詰まってしまうという現実を飾りっ気なく偏らないようにありのままに表現してしまった作品なのかなと思わせてくれるものでし た。毎日食べたいものを食べれて、 お金がいっぱいあるわけじゃないけれど、 ほどほどに暮らしていけるし、 老後は年金もあるし気の合うお友達もいるし、 なんか難しくして人生を深刻にしなくてもいいんじゃないという声 もあるのです。木を見て森を見ずという言葉があります。 私達はみんな森の中にいるのです。そうなんです、 実は私達は木しか見えないのは当然ではないでしょうか。 小説バターにあったように自分の見たいもの聞きたいものしか見ようとしないし聞こうとしないというのが普通の生き方かもしれません。私達が森の中にいるのであるなら、森は見えません。 わからないのです。 森が見えることで木の見方は変わるかもしれません。 それが可能性という光の輝きを見出だすということなのかもしれません。

 

■ 健康コンシェルジュ 気戸 ■
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