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2018-05-04 09:18:00

宇多田さんの曲から

4月に出された宇多田ヒカルさんの歌詞です。
Play A Love Song
傷ついた時
僕は一人静かに内省す
深読みをしてしまう君は不安と戦う
Hold me tight and don't let go Why we fight l don't Know
他の人がどうなのか僕は知らないけど僕の言葉の裏に他意などない
長い冬が終わる瞬間
笑顔で迎えたいから
意地張っても寒いだけさ
悲しい話はもうたくさん
好きだって聞かせてくれよ
Can we play a love song?
今の時代にぴったりの曲ではないかと思います。 寒い時に寒くなんてないわよというのが一般的な今までの生き方と か対処法だったように思います。寒い時は寒いんです。 だからはっきり伝えてその先が拒否でも受容でもどっちでも良いん です。 自分がどう対処するかどう前に進むか自分で決めれば良いのであっ て、その先にしかハッピーが無いんだということになります。 今この曲がものすごくダウンロードされているのだそうです。 とっても嬉しいことです。 プログラム参加者の方によく聞かれることがあります。 分かんないとか出来ないとかちっとも意味が分かんないというよう なことを言われることがあります。宇多田さんの曲のようにただ発しているだけなのですが、人様は発する言葉に別の意味があったり、 言葉にできない何かのメッセージがあるように解釈しているようで す。 それをどう取ろうがどう解釈しようが人の自由であって肯定的であ り否定的であってもそれは発した本人ではなく受け取った相手様の テリトリーになると思います。 目的が見えているのなら周りがどうであれどうでもいいことの方が多いのかも知れません。 よく聞く言葉ですが意識と無意識というのがあります。 日本の匠という言葉がありますが、職人中の職人、 技術者の中の技術者とでも解釈すればいいのでしょうか。 ピカソとか池田満寿夫とか横山大観とか、 コックさんでいえば昔の村上信夫さんという方もおられました。 意識については、もう誰もが知っているので分かっているので、 こちらとしては興味も関心も特にありません。 注目しているのは無意識です。 この無意識を少しでも意識的に分かっていると生き方や過ごし方が 大きく変わってしまうものと思います。それが匠と言われる職人中の職人なのではないでしょうか。 通常の同種の方とは同じ事をしているようで実は格段の差が生じて しまいます。 彼らは明かに無意識を意識化して実践しているものと思います。 著名な方々のようにまでなる方はなればいいのであって、 こちらとしてはそうした天才とか秀才やカリスマになろうと言っているわけではありません。私のようなどこにでもいる庶民が、 この無意識を少しでも意識化できると精神、肉体、 対人関係そして経済が無理するとか努力とか頑張るとか勇気とかを 必要とすることなく具現化してしまうよと言っているのです。 ご存知でしょうか1980年代、 90年代に流行ったスピリチュアルなセミナーに参加した方々は、 飛んだり跳ねたりキャーキャーと私幸せよと誰かれ問わずに抱きついてしまうhappy happyな空気感でした。 祭りが終わり一人になるとメソメソして私寂しい私どうしたらいいの…。だからこそまたhappy happyの世界に自分に嘘をついて月日を過ごしたものです。 こちらはスピリチュアルなセミナーでもなく飛んだり跳ねたりもしないしhappy happyもありません。 ただただ穏やかに健やかに2525になっていきます。 まず騒いでいる人は確かにいません。

 

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2018-04-27 09:26:00

青空

午後のティータイムをざっくり過ごしていた時です。 このブログをご覧になっていてバターも不発弾も読んでいるのだそうです。 どんな質問をされるのかとこちらが緊張してしまう雰囲気の方でし た。守秘義務があるので細かい事は書けませんが、 その方のお話を聞いていて古い本を思い出してしまいました。 それはイザヤ・ベンダサンの日本人とユダヤ人です。 イザヤさんはご存知の通り山本七平さんのペンネームです。 確か当時は300万部以上売れた本だったと思います。 簡単にいうとキリスト教、イスラム教、 ユダヤ教等々と宗教は幾つかあります。 日本は無宗教だという方が多いそうで…。 イザヤさんはそうではないだろうと言っています。 日本教徒だというのです。 日本人にキリスト教信者は実はいないというのです。 キリスト教でも大きく3つに分かれているように、 日本教のキリスト派、創価学会派、浄土真宗派、天台宗派、 イスラム教派だというのです。 本来の日本人は米を異常に大切にします。 遊牧民俗が異常に羊を大切にするのと同様でしょうか。 家畜に対する考え方が根本から異なっています。 インドでは神聖な牛は食しません。 徳川時代からの日本では道具としての牛は価値が高いとはいえ卑し い四つ足の牛は食しませんというように、 牛を食べるか食べないかの意識自体が根本から異なっている国際社会でのコミュニケーションというか 文化の違いを認識するか否かは大変な事かと思います。 このブログでベースに活用している小笠原理論もそうした面がある というのが現実です。 そうなってくるとのんびりしていたこちらの空気感を変えてしまう パワーの持ち主である30代の女性の存在はなかなかのものです。 日本国内で活躍しているキリスト教宣教師たちのように布教してい るのか、 はたまた布教されているのか日本人のキリスト教信者だと信ずる方 々の心の奥のその奥には宣教師であっても立ち入れない立ち入れさ せない日本教の何千年も引き継がれてきている強い信念はユダヤ教 の五千年以上続いている強い信念と共通しているものがあるように 思えます。後は時代時代の流れに合わせた生き方の結果が現在であり、 30代女性がどうしていいか分からないというのは表面に出ている キャリアとか家族や他人の目から見た無難な生き方かどうかというある意味の損得勘定をどうしたらいいかと悩んでいるだけで、 表面の奥にある価値観だとか感覚という核の部分は何の疑いもなく 認識しているように思えます。 言ってみれば小笠原理論の核にある部分を、 この方はご存知ではないはずなのにストレートに質問してきた方だ ったのです。 この方が無意識にやっている様々な出来事を意識的に認識していたのなら、 自分は正しいあなたが間違っているという考え方に取り憑かれていたとしても間が入ることになるだろうし、 これほどまでに悩まなかったのではないかとこちらは思っておりま す。 こうした方がこのブログをご覧になっている方の中にもたくさんお られるように思えます。私かなと思っているあなた、 よろしかったら足を運んでみませんか。

 

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2018-04-20 09:36:00

恵梨香と真理子

4月13日シリアのアサド政権に向けてアメリカは暴力を使いまし た。ロシアに対する牽制もあるのでしょう。Don't Think Twice, It's All Right. という曲がボブディランによって歌われています。 邦題にするとくよくよするなとでもなるのでしょうか。 日本でも安倍政権の基盤が揺らいでいます。 最近足を運んで来られたプログラム参加者の方も、 通常であるならこちらなど見向きもしないキャリアと財を持つ方で はないかと感じ取れます。 口数は少ないけれどその存在の語る雄弁さは300ページ以上の小 説のようです。最近どうしたのでしょう。 そうした方がちらほらお見えになるのです。 今までの常識というか一般的な生き方をしている方とは、 なかなかご縁の持てない内容と見られているというのは、 十二分に理解しているつもりなのです。今までの流れでいうなら、 たぶん2020年以降に出会う可能性の高い方々と推測していました。 北朝鮮の金正恩氏のように変わり身の早い方々なのでしょうか。 とは言っても表面的な事柄にまだまだ終始しているところからして 社会システムが時代の流れが180度位には変わってしまうという ような、新たな価値観というか地動説への理解と対応には、 やはり時間がかかるのでしょうか。今生きている環境、 今生きている生活や人間関係が急に変わってしまっては、 十中八九パニックになってしまうことでしょうし、 まさかと誰もが思うのははじめは致し方ないことではないでしょう か。 このブログをご覧頂いている方々が結構おられるということがわか ってしまい、ヘタなことも書けないのですが、 これを読まれる方々の無意識に持っている価値観や道徳観とか常識 は当然こちらも有しているからこそ受け止めやすいようで受け止め 難く、分かるようで分かり難いという内容であるというのは、 秩序を乱すトランプさんにも金正恩さんにも、 今までのようにやっていて何が悪いんだいいじゃないかと取れる安倍政権においても、 そしてこのブログをご覧になっておられる方とてもそうした思いを お持ちではないのでしょうか。 ご存知の方もおられると思いますが相場英雄さんの小説で不発弾というのがあります。 どれが正義でどれが悪なのかで済むならそれに越したことはありません。テレビのアニメを見たがるのはそうじゃないからであって、 不発弾の中に出てくる古賀さんの葛藤する思いと小堀さんの執念とがまるで陰陽とこれからの未来を指し示しているかのようです。

 

■ 健康コンシェルジュ 気戸 ■
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2018-04-13 09:28:00

ぼんやりしていて

話題のレストランで同僚とランチ、 夜は大手企業に勤めてるスポーツマンとの合コン。 一応結婚前提で付き合っている彼はいるし、 遊び仲間もSNSのお友達も…。習い事も楽しいし、 それなりに充実しているけど…。その時だけが良ければいいし、 未来永劫も続くような気がするって本気で思ってる私って大丈夫か な…、 それって見たいものしか見ない聞きたいものしか聞かないってことになるなんて思いたくないけどなんかそうみたいな気がする、 あれ。 インスタ映えするようにお洒落なカフェに行ってわざわざ2人分の ケーキと紅茶を頼んだり、 美肌モードで自撮りするのが特技になりつつある私。 日常生活のあらゆることにちょっとずつ美化して作りあげて、 そしてなんとか自分の納得がいくようなものにしている。 そうすれば嫌なものを見ないし気持ちが保てるから。 なーんて思っていた私って…いわゆる裸の王様ってやつかな。 最近本気で悩んでいるんです。という声がありました。
レスリングや相撲の世界、文部科学省、財務省、 防衛省とかトランプや習近平の存在もそうだと思うのだけど、 小笠原理論にあったように今までの社会システムが破壊されてくる よというのが本当だったのだなと深々感じいっています。 個人レベルにおいても上記の方のような自分が納得してよかれと思ってやっていることがひょっとして客観的視点を見ないようにして 聞かないようにして、 自分の主観的視点が世界の共通意識などと思い込みをしているのかもしれないのかな…。 一人でワインを傾けフカフカのソファに乗っかるお尻はとても気持ちがいいけれど…。何か違うのかもしれない。 何かわからないけれど、 小笠原理論読んでも表面だけでは分かったようなわからないような 感じだし…。本当にこのままでいいのだろうか。 年とってもこのまま楽しく暮らせるのだろうか。 表向きは楽しく過ごしている私だけど、 一人の時間を持つようになって、 柚木麻子のバターっていう小説を噛み砕いていくとどうも他人事じゃないのかなと本当に不安になってしまう。

 

■ 健康コンシェルジュ 気戸 ■
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2018-04-06 09:25:00

飛行機の窓から

柚木麻子さんの小説を過去において何度か紹介いたしたことがあります。 ここ周辺においては出しておりませんので彼女の存在を知らない方もおられるかと思います。 2017年4月に出版されている柚木麻子さんの小説、 バターを取り上げたいと思います。昨年の直木賞選考にも入っていた小説ですが、 こんなこと無いよとか偏り過ぎているよというようなことで選ばれなかった作品です。 選考委員の一人の論評にあったと思うのですが、それはsense of shame、 恥に対する捉え方の問題ではないだろうかだったと思います。 それはこのホームページでこのプログラムでこちらを含め誰もが引 っかかる、足止めをしてしまう、 夢を壊してしまうとか諦めてしまうとかなかったことにしてしまう トリックの最大級のものであるように思います。 小説の中で里佳さんの父親が孤立してしまいどうにもならずに動けなくなってしまい最優先する必要性のあることですら出来ずに死んでいったという結果にもしてしまうトリックの強大さだったのかもしれません。 最近の話でいえば前国税庁長官だった佐川さんの国会証人のあの一 場面でも根底の根底にある価値観に対する恥、 この一文字の影響は絶大だったのではないでしょうか。 それをすり抜けるための方便として刑事訴追という言葉を用いただけのように思えます。 そうしたことは日常茶飯事で誰もが毎日毎瞬やっていることであって、それなりに人間関係が進んでいるのもこうした配慮が双方にあるた めだと思われます。 例えば駅のホームで電車を待つ女子高生のスカートがめくれるのが 恥というのもあれば、大東亜戦争において捕虜になるのが、 生きていることが恥と捉え死ぬ方もいたし、 誰もができると思われていることを自分ができないということを知 ってしまったことへの恥、日常生活においても金のことや学歴、 しつけや常識、食事におけるワインの知識やマナー、 服装やTPOとかのマニュアルを知らない恥から哲学や宗教的なこ とに対する様々な恥もあると思います。 小説バターの中で語られている小菅の住人の生き方、 その共通点を持っている伶子さんの生き方、 主人公の里佳さんもそこまでに至る過去の出来事から生じてくる現在の選択にしても、どこかsense of shameを基準として箱の中におさまった選択をしたり、 箱の中から脱皮した選択をしたりして進化していく、 その結果玉ねぎの皮を一枚ずつはがすようにらくになり穏やかになり新たな自分自身の在り方や生き方を築きあげていくという、 現在の私達にとって触りたくないけど触らなければこの先がなくな ってしまう、 行き詰まってしまうという現実を飾りっ気なく偏らないようにありのままに表現してしまった作品なのかなと思わせてくれるものでし た。毎日食べたいものを食べれて、 お金がいっぱいあるわけじゃないけれど、 ほどほどに暮らしていけるし、 老後は年金もあるし気の合うお友達もいるし、 なんか難しくして人生を深刻にしなくてもいいんじゃないという声 もあるのです。木を見て森を見ずという言葉があります。 私達はみんな森の中にいるのです。そうなんです、 実は私達は木しか見えないのは当然ではないでしょうか。 小説バターにあったように自分の見たいもの聞きたいものしか見ようとしないし聞こうとしないというのが普通の生き方かもしれません。私達が森の中にいるのであるなら、森は見えません。 わからないのです。 森が見えることで木の見方は変わるかもしれません。 それが可能性という光の輝きを見出だすということなのかもしれません。

 

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