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三種の神器と観念
ただ単純に三種の神器を列挙しても理解できるものではないと思います。
前記しているように人は日々の生活の中で無意識に自分が身に付けた、養った、そして習慣化した行動パターンの中で生きているものです。
その行動パターンの奥を見てみると思想や考え方、価値観等があり、その奥を見てみると感情があります。
その感情の奥を見てみると、固定観念とか定義とか哲学とかがあります。
三種の神器とはこの観念の領域にあります。
通常はここで終わります。
しかしながらそれではうまく行かない、面白くない、いつもの行動パターンです。
ここでは、その奥を見ることになります。
とはいえ、その上にある観念を十分に理解していないと頭が混乱して先に進めません。
そのために観念にエネルギーと時間を使って理解を深めたいと思っております。
例えば、日々の生活の中で多く見かける現象があります。
注目されたい、脚光を浴びたい、自分の存在意義を他人に認めさせたいとか、自分が仕切るとか、
ここでは自分が一番偉いんだとか、しゃしゃり出るとか、けしかける、自分が一番センスがよく美人だとかの
私が私が、俺が俺が
という現象が生み出されてくるのはどんな観念から生み出されてきたのでしょうか。
三種の神器とは
玉、鏡、剣の三種の神器という観念に関して、おおまかにご理解頂ければと考えております。
玉はパワーの象徴です。
大企業、大財閥、大国そしてお金、ピラミッド構造のトップはいうまでもなく権力、地位、名誉、財などのパワーです。
人が無意識に高い所に行きたがる、高い建物を造る、ナンバーワンを得たいと競う、高層階に住みたがる、セレブになりたがる、
小中学生のいじめ問題、運動部の先輩、後輩、他人からの承認を求めたがる等々です。
鏡とは信じ従いなさい、つまり真似をしなさいということです。
裏を返すと嘘ごまかしをしないと生きていけませんよということです。
例として学校教育、報告・連絡・相談のほうれんそう、家族から大企業にいたるまで運営法、兵隊さん、宗教、等々です。
剣とはそのまんま戦いです。
つまり権力、金や地位などの力を信じない従わないという反逆を起こした場合、村八分とか組織では降格、解雇とか無視する、四面楚歌にする、それでも信じ、従わない場合、戦争とかの暴力で制するということです。
これが三種の神器です。
それが江戸時代の士農工商、帯に短し襷に長しとか面従腹背とか、右手で握手左手でピストルとか
色々な人生の処世術から対処法まで色々な言い方がされています。
時代の変化
このブログをみて下さる方がおられるのだということを確認する機会がありました。
毎回ご覧になって頂いている事を嬉しく思います。
ありがとうございます。
質問が入ってきました。
三種の神器をもっと分かりやすく説明せよでした。
説明する事は出来ますが人は無くて七癖、というように自分自身が無意識に何をしているのか分かっているようで
実に分かっていないようです。
そうした理由から他人に指摘されると深く傷つき怒り出す可能性の高い内容となってしまいます。
その辺を十分理解した上で読んで頂きたいものです。
またそれをクリアする事により病気は回復し、人間関係も楽になり日々楽しい健やかなる余生が続く事になっていきます。
多くの人がこの無意識の部分を乗り越えることができずに苦渋の、
そして忙しくストレスだらけの下手すると丸々依存症になって人生を送っていきます。
三種の神器とは前記した通り玉、鏡、そして剣です。
これはあくまでも象徴でありある時期に於いては、生きる条件、幸福の条件でした。
ある時期を経て今の段階はこれが通用しにくくなっています。
時代の変化なのでしょうね。
生きる条件、幸福の条件ですから誰もが考える事なくやっています。
そうしなければならないという義務、規律というか、刑務所の中にいるものにとってはそのルールを守らなければ
ご飯も水も飲めなくなってしまうルールです。
時代の流れはこの刑務所の壁はなくなっているのですが、このルールという檻の中から出てくる人はまだ非常に少ない人数です。
この檻の中から出てくる事により、楽になり精神、肉体そして対人関係が自由で楽に楽しくなってくるという事をここで述べております。
その道具として熱海断食道場の半断食法とかパワー機があるのです。
楽に通過する為の道具として提示しています。
従って人が無意識にやっている観念の中の三種の神器を具体的に列挙したいと思います。
詳細に関しては来年1月から書いていきたいと思います。
無意識
天動説と地動説の話から意識と無意識という言葉が出てきてしまいました。
三つ子の魂百までも、という言葉があります。...
生後より3歳までに身に付けたパターンは死ぬまで変えられないと言われています。
3歳以降、エディプスコンプレックス期を経て学校に入り、社会の風俗や習慣という文化を身に付けて行きます。
社会性とでもいうのでしょうか。
この無意識のパターンは環境、民族や国によっても異なりますが目的は同じだと思います。
それは食べる、寝る、そして排泄するという必要最低条件にも繋がっているという事です。
そこにそれぞれの文化にあった無意識という名の国や地域から追い出されないで楽に生きていくための、集合的無意識という観念を道具として生きi続けている現実というものではないでしょうか。
こう書いていくと難しくなってしまいます。
具体的な観念を列挙してみます。
男はスカートを履かない、風呂の湯には首まで浸かる、男は女より偉い、物事は全て損得で見ていく、世の中には勝者と敗者とに分かれる、
結婚しないと一人前の人間ではない、子どもを生まない女は人間ではない、水商売をする人間は下等である、職業別で良い悪いがある、等々と無限になってしまうのでこの辺にしておきます。
簡単にいうなら今、あなたから出た感情、感情が出たという事はその奥に何らかの観念があるという事です。
つまり観念をフィルターや色眼鏡と仮定してみます。
すると、白いものが黒にも赤にもグリーンにもなってしまうというフシギです。
実は最初っから白なんですけど…。
この観念が感情を生産し、この2つが思考を産み出していきます。
観念→感情→思考=行動パターンです。
これを悪い事だと言いたいわけではありません。
こうした無意識のパターンの中で人は生きているのではないかと思うのです。
如何でしょうか?
そして、この無意識のパターンの最大に強い観念が3種の神器と言われています。
象徴として玉、鏡そして剣です。
玉は権力、金という物質的な力でしょうか。
言い換えるならピラミッドの頂上です。
おおかたの男性はこの縦型の上に行きたいと思っています。
女性も同じかな…。
その玉の元に鏡があります。
それは上の者に従いなさい、真似しなさい、個性を出してはいけません。
独自性は認めません…
だからこそ、上っ面だけそうしておいて嘘ごまかしがはびこってしまう理由です。
また縦型社会ですから腹の中で何を考えようと上っ面を整えておかないと生きていけないという現実があります。
そして、その下に剣が出てきます。
玉と鏡に逆らうならば殺す、戦って潰してやるぞ、という考え方です。
いじめやいびり、暴走族や有色人種差別とか限りなく形をかえ存在している事はよくご存知でしょう。
日本を初め、世界各国はこのシステムで成立しているものと思います。
こうした観念は人間が作ったものであって自然界にはありません。
自然界にあるのはそしてその自然界の法則を成立させているのは一体何でしょうか。
それを意識の高いあなたに深く認識して頂きたいと思って、このブログが出来ています。
観念
この世の中で自分がバカだと思っている人は100%いないと思います。
自分がバカだと思ったり口にする方は思い込みなり防御ではないでしょうか。
小さい頃、親や周りの人に言われるものです。...
貴方はお利口さんね!本当にお利口さんだわ!と。
毎日毎日、毎月毎月、何年も言われていれば自分は利口な人間だと思っているのではないのでしょうか。
試しに周りの人を観察してみて下さい。
あっちこっちにいるでしょ…
逆にお前はバカだと毎日、そして毎月、それに何年も言われていればそれが当たり前だと思うのではないでしょうか。
これを平たく見てみると、肯定的メッセージが来れば気を良くする。
否定的メッセージが来れば気を悪くする。
気を悪くするということは表現はさておき、それは真実とは違うと思うからこそ気を悪くするのではないでしょうか。
言い換えるなら自分が他人に否定されるというのは、どう考えてもありえない…
人は100%自分を信じていると思います。
だからこそ、明朗活発で好きで楽しい人生を送りたいと日々頑張ったり努力もしたりとなるものと思います。
他人から色々な評価や判断を下される中で今、この現在は誤解なり苦労なりも甘受しよう。
それは未来に自分が思い描いた世界が必ず待っている…
と信じたりしているのではないでしょうか。
だからこそ今はバカというレッテルをはられても良いのかなと思った事も、おおかたの人はあるものと推測します。
それは意識、無意識には関係ありません。
観念というフィルターを通して常に自分の安全と安心を保って生きているものと思います。
その観念が自分をバカだとしている方が安全で安心ならば、自分をバカだと思うし、自分をバカだと口にしているものと思います。
どんな観念をどれだけの観念を持ちそのフィルターを通し日々生きているかと想定してみて下さい。
するとお気付きになることと思います。
如何に人にうけ、人に喜ばれ、人に愛される、そして人に認められようとしている事に…。
その観念というフィルターを通して生きている以上、いい女であったり、いい男、学歴、育ち、親の財、見た目の良さ等が十分であることは必須条件と思うのは人情でしょう。
私を含め、こうして育ってきていませんか?
ワクワクする生き方が良いんだ!と周りは言うけれど、それは自分がワクワクしているのではなく、他人から評価されなければ幸福になれないという固定観念が喜ぶワクワクをしているのではないでしょうか。
こんな経験はありませんか?
周りの人から多くの称賛を、喜びをシャワーのように浴びせられます。
お愛想がありますから自分も喜びに浸った顔をします。
それのほうが調和が保たれるし周りの人の面子も保たれます。
けれど自分の心の奥は何か冷めています。
これは違う、これは自分の欲しいものではない。
だけど世間体や体面があるので、それは言えない。
そうした本音の振舞いは決して出来ない。
大なり小なり、そんな体験をお持ちではないでしょうか。
観念の奥にある自分自身が本当にやりたい事、ありたい自分を出す事が、
そしてやり続ける事が本来のワクワクな生き方ではないでしょうか。
それは分かっているけれどもなかなか出来ないのよ!
と人は言うものです。
つまり本当のワクワクをしてしまったら、貴方安心して人生を送っていくのは無理よ。という観念があるという事になります。
これをより理解するのに役立つ小説があります、柚木麻子です。
ここでは天動説と地動説の在り方の違いを説明するところですので、抽象的な表現はこの辺に致します。
上記の表現でお気付きの事と思います。
自分自身の本音のワクワクで生きていく事が地動説です。
それを邪魔するのが自分が持つ無数の観念です。
観念をメインとすれば責任が少なくて済みます。
自分自身をメインとすると責任が100%つきます。
私を含め組織社会の世の中では責任を100%とる人は殆んどいません。
上手く皆逃げています。
つまり他人のせいにするという事です。
従って、天動説となります。